某番組に、罪を犯した女医さんが出演していた。
実家はお金持ちで、何不自由なく甘やかされて育った。
成績も優秀で、医師になった。
コメンテーターは、
「親がかわいそう」
と言う。
でも間違っているかもしれないけれど、私は感じてしまった。
親がこの人をこんなふうにしてしまった。この人は、親の愛情という名の被害者だ。
私には彼女が、心の中で叫んでいるように思えた。「誰かわかって。助けて」って。
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目次
子供は親の期待に応えようとする
人間にはみな、承認欲求があるのだとして、誰の承認を一番得たいのかといったら、親だと思う。
ほかの誰が自分を認めてくれなかろうと、親は当然、自分を認めてくれる存在だというのが根っこにあるからだ。
その親から、けなされ、認められていないとしたら、無意識にでも人は、親の承認を得たいと思うものなのではないだろうか。
ほかの誰にも認められなくても、親だけは認めてくれているというのは、歪んでいるかもしれないけれど、揺るがない自信になるのだと思う。
条件付きの愛情にも応えようとする
例えば親が、成績が優秀でなければ認めてくれないとしたら、必死に勉強をするかもしれない。
勉強では親には認めてもらえないと悟ったら、ほかのなにかで良い成績を残し、自分の存在を認めてもらおうとする。
別に、親に認めてもらえなくたって生きていけるのに、なぜか人は、無意識にでも親に認められたいと思うもの。
今回の女医さんの場合は、優秀で、美人で、親から見たら自慢の娘だっただろう。
「親には感謝している」
と女医さんは言った。
可愛がってくれて、甘やかしてくれて、お金を出してくれて、感謝している、それは嘘ではないのだろう。
でも彼女は、親のことを「大好き」だろうか?
愛情という名の虐待
虐待というと、暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりというものだというのが一般的な考え方なのかもしれない。
しかし、過剰な愛情というのも、ある意味、言葉は過激だけど、”虐待”なのではないだろうか。
親は愛情を注ぐ、たっぷりと甘やかす、お金も使う、期待通りの自慢の娘。
自慢の娘だから「こうであるべき」という姿を決めてエゴを押しつけながら、「あなたのため」だと愛情を装う。彼らは自分の所有物のように、娘を扱う。
娘は親からの愛情を充分感じている。感謝もしている。だから期待に応えなくてはと思っている。例え自分を偽ってでも。
でも、次第に息苦しくなってくる。親が愛しているのは、本当の私なのだろうか。親が「こうであってほしい」と期待する「自慢の娘」という虚像なのではないか。
娘は反発する。私はこんなに悪いところもあるんだけど、これでも私を愛せるの?
親は自慢の娘を手放さない。「なにがあっても味方だから、自分たちを頼りなさい」それが愛情だと思っている。
息苦しい。見放された方がラクなのに。
親への不満なんて他人にいえない、だって感謝している親が責められるのはつらいから
「親には感謝している」
それしか言えないですよ。だって本当に親は可愛がって、甘やかして育ててきてくれたのだから。
”実は親のせいで、私はこんなふうになってしまいました”
なんて言ったら、
「なんて女なの!」
って非難されるのがわかっているし、それよりなによりも、彼女自身が親の愛情を感じているから、親の悪口なんて絶対言えない。
自分のために親が責められることになるのも、絶対に嫌だ。だって感謝しているから。
親を悲しませても離れなくちゃ解放されない
親子だからこその、この息苦しい状況、
親不孝と言われようが、親に泣かれようが、親元から離れなくては、親からの愛情という名の虐待からは解放されないでしょう。
私はこの女医さんのことを、よく知らない。
たまたま出演しているのを見て感じただけなので、勘違いかもしれない。
だけどコメンテーターが、
「親に悪いと思わないの!?」
「親がかわいそう!」
というのを聞いて、『あー、わかってない』などと思ってしまった。私こそ、わかってないかもしれないのに。
しかし、愛情という名の虐待はあると思う。その場合、本人が鉄の意志を持たないと解放されないのではないか。
親からの承認を切り離し、否定するのは、とても苦しいことだから。
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