会話の中で「私」という言葉を多く使っていたことがあったらしい。
例えば、
「私は、××と思う」
というふうに。
「”私”って言葉を使うの止めなさい!」
注意を受けて、初めて気づいた。え? そんなに「私」を多用していたかなって。
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目次
むしろ相手を尊重する気持ちで使っていた
その人曰く、
”私”を多く使うのは、自己顕示欲が強いということなのだそうだ。だから不愉快なのでやめろということ。
指摘されて考えてみると、確かに”私”という言葉を多めに使っていたかもしれないと思った。
でも”私”という言葉を使っていたのは、むしろ相手や他人の気持ちを尊重するつもり、かつ自分の意見に責任を持つ気持ちだった。それが自己顕示欲が強い人と取られるなんて思ってもいなかった。
つまり、
「(もしかして間違っているかもしれないけれど)私は××と思います」
とか、
「(あなたの意見を否定するつもりはないけれど)私の意見は☆☆です」
というふうに。
激しい自己主張や、相手の主張をねじ伏せるという意味ではなくて、いろいろな考え方もあるとわかっていて、自分の考えが正しいとは言えないけれど、でも「私は××と思うんですよ」という気持ちで使っていた。
だから自分とは違う意見が出ても頭から否定はしないし、ほかの意見を聞いて自分の意見をあらためることもしてきた。
まさか「”私”を使うな。不快だから」と指摘されるとは思っていなかった。
日本語には主語がない
日本語では主語(私)が省略されることが多い。
例えば英語では、
「I like cake」(私はケーキが好きです)
というところを日本語では、
「ケーキが好きなの!」
だけで表現できる。
確かに「私はケーキが好きなの!」と”私”をつけると、くどいように感じる。
会話をしながら「私の考えは××なの!」「私の家には◎◎があるの!」と”私”を連発されたら、感じが悪くなってしまうかもしれない。
「みんな同じ価値観」というのが前提らしい
日本語では主語が省略される傾向があるのは、みんなが同じ価値観であるのが前提だからだそうだ。
誰の意見かは関係なく、みんな同じ意見、合わせるのが当たり前、違う意見を言ったらその場で浮いてしまう。
自己主張して嫌われたら仲間外れにされてやっていけなくなる「村八分」のような考え方が根強く残っている。
「空気を読む」をしていかないと、やっていけなくなるということ。
人と同調することが尊いと考えられている日本では、自分と他人を切り離して、自分の意見を主張する、自分の発言に責任を持つという意識が、世界から見ても遅れているらしい。
和を尊ぶのも大切だけど、違うと思うことは主張しないと
協力したり、和を尊ぶのは日本人の良いところだと思うから、なにも全面的に世界に合わせることはないと思う。
だけど、「人とは違う自分の意見は言えない」のは違うと思う。
相手の意見をねじ伏せるようなことをしたいわけではなくて、間違っていると感じたことを見ないふりをしているのはおかしいし、相手を理解しようと努めつつ、自分の考えも言うことが自己顕示欲が強すぎとは思わない。
日本語において、また日本社会において「私」を多く使うのが不快ならば、多用しないようにするけれど、例え控えめであっても、意見は言える自分でありたい。それが人とは違う意見であっても。
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